鎌倉殿の13人#33「修善寺」

最強の暗殺者も結局は「人の子」だった、ということだ。前回のドラマでそのフラグは立っていたのかもしれないが。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1563738141542031360

若い時には「何かしらの正義」を追い求め、「間違っているであろうこと」を糾弾したくなる。義時は、自分のかつての姿を若い息子に観ている。清濁を併せ飲むには「経験」が必要だ。結果として、その時に最善の決断を人間は出来るようになる。それを人は「成長」と呼ぶのかもしれないが、そんな成長、本当に必要だろうか。必要であっただろうか。そんな事を考えさせられたエピソード。

鎌倉殿の13人#32「災いの種」

今回の大河ドラマはタイトルに張られている伏線をよく考える。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1561201426990252032

災いの種とはなんであったのか。無理難題を御家人に吹きかけて、無念の死に追いやった将軍自身か。比企一族の血を引く直系の子供たちか。エンディングで比企尼に呪詛の言葉を吹き込まれた子は結局、将軍を殺害したと言うしな…

無慈悲に暗殺を命じるようになった義時を観ているのはドラマとしては楽しいのだが、ダークサイドに転じた義時の思うがままに事が進まないのも、おそらくはキャラクターがきちんと「立っている」からだと思う。

鎌倉殿の13人#31「諦めの悪い男」

比企能員を追い落として、北条義時が「ダークサイド」に堕ちた、という表現を見かけることがあるのだが、「堕ちた」という表現が正しいかどうかはやっぱり物の見方によるんだろうな、と改めて思った。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1558664713881493512

アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちたのも、彼なりの「正義」があったからこそ、だし、北条義時にもそれなりの正義がある。まあ、むしろ、今回の場合は比企能員が既にダークサイドに堕ちていた、と表現するほうが物語としては適切なのかもしれない。

だから、適切な表現としては、やはり「覚醒」なんだろうな、と思う。

鎌倉殿の13人#30「全成の確率」

巧く繋がった描き方だったという印象。前回「置き忘れた」人形。来なかった将軍。三谷幸喜の大河はこんなに巧く繋げるものだったっけ、という感じがした。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1556127996158906368

全成も、雷雲を呼べるくらいなら、もっと何か出来たんじゃないかと思うのだけど、そこはご愛嬌なのかもしれない。「悪禅師」という異名は伊達ではなかった、ということだろうか。