日経テレ東大学の終焉

人生もいつかは終わるのだが、コンテンツもいつかは終わる。日経テレ東大学もまた、然り。ただ、今回の終わらせ方はなんだかなあ、という感じが正直している。文春の報道が全てではないのだろうが、どうも、このクニは「変化」を好まない傾向にある。

後藤達也氏が云うところの、「日経のエスタブリッシュメント」達は、結局、日経テレ東大学を終了させる、という選択をして、変化を「拒んだ」のではないかと思う。mixiや、facebook、twitterの潮流から、youtubeや、Tiktokへの移行を上手く乗り切れなかった日経にとっては、日経テレ東大学は、「それなりの」コンテンツだったと思うのだが、それを切り捨てて、元の保守本流、エスタブリッシュメントを守ることがどうやら、彼等の正義のようだ。

結局、このクニは「外圧」でしか、変革出来ないのかもしれない。

鎌倉殿の13人#33「修善寺」

最強の暗殺者も結局は「人の子」だった、ということだ。前回のドラマでそのフラグは立っていたのかもしれないが。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1563738141542031360

若い時には「何かしらの正義」を追い求め、「間違っているであろうこと」を糾弾したくなる。義時は、自分のかつての姿を若い息子に観ている。清濁を併せ飲むには「経験」が必要だ。結果として、その時に最善の決断を人間は出来るようになる。それを人は「成長」と呼ぶのかもしれないが、そんな成長、本当に必要だろうか。必要であっただろうか。そんな事を考えさせられたエピソード。

鎌倉殿の13人#31「諦めの悪い男」

比企能員を追い落として、北条義時が「ダークサイド」に堕ちた、という表現を見かけることがあるのだが、「堕ちた」という表現が正しいかどうかはやっぱり物の見方によるんだろうな、と改めて思った。

https://twitter.com/nhk_kamakura13/status/1558664713881493512

アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちたのも、彼なりの「正義」があったからこそ、だし、北条義時にもそれなりの正義がある。まあ、むしろ、今回の場合は比企能員が既にダークサイドに堕ちていた、と表現するほうが物語としては適切なのかもしれない。

だから、適切な表現としては、やはり「覚醒」なんだろうな、と思う。

人間不信

人事異動に翻弄されて、すっかり人間不信になってしまった。所詮、人間なんていうものは時分の思う正義を感じてくれないものなのかもしれない。人類皆に通用する、正義のようなものすら、ひょっとしたらないのかもしれない。仁義とか、義理とか、そういうものを大切にしてきたつもりなのだけれど、ひょっとしたら、そんなものすらこの世にはないのかもしれないと思うと、何だか虚無感を感じてしまう。

正義とは何か、という話。

ストレスが過多になりすぎて、色々面倒になってしまって、何もかもを投げ捨ててしまいたくなる衝動にかられている。結局、そこまでの勇気もないし、行動力もないので、何も出来ない。せいぜい、憂さを晴らすのが精一杯。

世の中に不正義がまかり通るのは仕方がないのかもしれないけれど、正義を不正義の如く扱われるのが本当に気に入らない。なんでなんだろうか。