遂に決断の時。
絆は永遠の「はず」だったもので、永遠ではなかった。義時の衣装は、闇に、ダークサイドに堕ちていく都度、濃くなっていって、遂に黒が基調になる。
「道具」として前任者から受け継いだ暗殺者が、悪の元凶である継母を「仕損じる」とは想定外だったのかもしれないが、これで、物語は「始まった」と言えるのかもしれない。大河ドラマの半分以上を費やして。
この国では口に出来ないような話。
遂に決断の時。
絆は永遠の「はず」だったもので、永遠ではなかった。義時の衣装は、闇に、ダークサイドに堕ちていく都度、濃くなっていって、遂に黒が基調になる。
「道具」として前任者から受け継いだ暗殺者が、悪の元凶である継母を「仕損じる」とは想定外だったのかもしれないが、これで、物語は「始まった」と言えるのかもしれない。大河ドラマの半分以上を費やして。
謎を呼んだタイトルだったが、蓋をあけてみれば、単なるお経の文言だった、というオチがついた。
結局、りくの「悪女」ぶりが際立っていて、親父殿は何も悪くはない、というストーリーなんだけど、父親を追放することによって、義時の物語は一個、壁を超える。肝心の捕縛シーンは週を跨いだが、将軍自身が、あまり際立った「自我」を出さないところに、彼が主役ではない、という実感を感じる。
武士の鑑、というタイトルでまず思うのは、所謂「武士道」という概念が確立されたのはいつなんだろう、ということ。現代に伝わる武士のお作法はおそらくは江戸時代のものだから、結局はそれくらいの時代なんでしょうけどね。
本編を見るとわかるけど、鎌倉の頃の甲冑は戦国期のそれとは違って、まだ「見栄え」のようなものが重視されていた時代。武士とは何か、武者とは何であるか。譲れないものが何であるか。畠山はどんなものを、思いを抱いて死んでいったのだろうか。
陰謀渦巻く鎌倉。
畠山を追い落とそうとする、北条家と陰謀を阻止しようとする義時の小競り合いといった感じ。実際に滅ぶのは来週以降なんだろうけど、その前段階としては面白い回だった。義時の新しい妻を瞬間で見抜く三浦義村も良かったですよね。
話の流れ的に何を伝えたいのかがよく見えないな、と思っていたのだけど、最後の最後で全部ひっくり返ったイメージ。
どいつもこいつも欲にまみれた登場人物ばかりのなか、義時だけ、そういうのに引っかからないのは不思議と言えば不思議だったのだけど、これで、彼にも頭痛の種が一個増えることになりそう。
親父殿の追放も間もなくだろうから、物語として、何処まで描ききれるか、という最終回の年表的な位置づけがそろそろ気になってくる。
最強の暗殺者も結局は「人の子」だった、ということだ。前回のドラマでそのフラグは立っていたのかもしれないが。
若い時には「何かしらの正義」を追い求め、「間違っているであろうこと」を糾弾したくなる。義時は、自分のかつての姿を若い息子に観ている。清濁を併せ飲むには「経験」が必要だ。結果として、その時に最善の決断を人間は出来るようになる。それを人は「成長」と呼ぶのかもしれないが、そんな成長、本当に必要だろうか。必要であっただろうか。そんな事を考えさせられたエピソード。
今回の大河ドラマはタイトルに張られている伏線をよく考える。
災いの種とはなんであったのか。無理難題を御家人に吹きかけて、無念の死に追いやった将軍自身か。比企一族の血を引く直系の子供たちか。エンディングで比企尼に呪詛の言葉を吹き込まれた子は結局、将軍を殺害したと言うしな…
無慈悲に暗殺を命じるようになった義時を観ているのはドラマとしては楽しいのだが、ダークサイドに転じた義時の思うがままに事が進まないのも、おそらくはキャラクターがきちんと「立っている」からだと思う。
比企能員を追い落として、北条義時が「ダークサイド」に堕ちた、という表現を見かけることがあるのだが、「堕ちた」という表現が正しいかどうかはやっぱり物の見方によるんだろうな、と改めて思った。
アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちたのも、彼なりの「正義」があったからこそ、だし、北条義時にもそれなりの正義がある。まあ、むしろ、今回の場合は比企能員が既にダークサイドに堕ちていた、と表現するほうが物語としては適切なのかもしれない。
だから、適切な表現としては、やはり「覚醒」なんだろうな、と思う。
巧く繋がった描き方だったという印象。前回「置き忘れた」人形。来なかった将軍。三谷幸喜の大河はこんなに巧く繋げるものだったっけ、という感じがした。
全成も、雷雲を呼べるくらいなら、もっと何か出来たんじゃないかと思うのだけど、そこはご愛嬌なのかもしれない。「悪禅師」という異名は伊達ではなかった、ということだろうか。
タイトルの「玉」というのはおそらくは蹴鞠の玉のことだろう。
何事も思うようにコントロールするのは難しい。それは北条泰時の名前もそうだし、善児が二代目になるのもそうかもしれない。物語には「メッセージ性」を求めてしまいがちなのだが、今回のメッセージはそんなところか。
オチというか、きのこのくだりも含めて、世界は思うようにはならぬもの。