お腹ぽっこりも気になるんだけど。上半身ばっかりトレーニングしていたことに今さらながら気がついて。今日は下半身中心でやってみたら、足が痛くなった(笑)。やっぱり積み重ねでやっていかないと肉体改造ってできないんだよねえ…
プレゼンテーション
デリバリーとか、プレゼンテーション、とか言うけど。相手を目の前にしてしゃべる時は「相手の理解度」を推し量って、たとえ、自分ではわかっていても、自分ではどんなに当たり前でもそれを相手にあわせてしゃべるのが常道である。「自分の理解」で、「自分の基準」で、しゃべるようなプレゼンターは最悪。そして、そんな人間をプレゼンターに選んでしまうようなベンダーもいかがなものか。
心を強く
もう少しイライラしないでいたいなあ、と思う。基本的に仕事は楽しいのだけど、全部が全部楽しい仕事なんてあるわけはなくて。やっぱりイライラしてしまう。心がどうしても過敏に反応するから、やっぱりそういうのはなくしたい。無くしたいんだけどね…
宗教的観念
日本というのは宗教的観念がほぼ皆無に近い。日曜日にミサに行ったり。ましてや「神のお告げで」自爆したりはしない。これが日本の良いところ、と言ってしまえばそうなのだけど。これって逆の意味では不幸なのかもしれないな、って時々思う。大学で宗教を学んだけれど、宗教を拠り所として生きていくことを日本人は知らない。神様仏様、と言ったところで誰も助けてくれない、とある意味日本人は醒めている。神、Godっていう存在を少しは意識してもいいのかもしれない。
まあ、度を越して嵌るのも問題ですけどね。
横浜開港150周年
横浜開港150周年ってことでいろいろイベントがあるみたいなんですけど。盛り上がっているのは一部公共機関と一部情報誌、という感じ。市民にとってはあんまりインパクトないなあ…っていうか、税金相当使ってるのかな。もうちょっとましな所に投資してくんないかな。
間違いは犯すもの
人は間違いを犯す。それは間違いなくて。問題というか、肝心なのはそのリカバリー方法だと思う。「やばい」ことは早め早めに言うべきだし、最後の最後になってすいません、ではすまなくなる。今、問題なのは彼らがそれを認識してくれないこと。さて、どうしたもんか。
家族
正直な話。子供の頃、家族との楽しい思い出はない。30を超えた今となれば、父親の性格や、母親の性格もわかって、ああ、あれはああいうことだったんだな、って思い返すこともできるけど。子供の頃はそんな事を考える余裕なんて当然なくて。ただただなんなんだろう、この人は?って思っていた。自分で動かず、何でもかんでも周りを動かして、周りが動いてくれるのが当たり前だと思っている父と、家に居候している自分の母親の部屋に閉じこもりっきりだった母。私を思いっきり引っぱたいて育てた母は9歳離れた妹が育った頃にはそんなひっぱたく元気もなくなっているように見えた。
私の幼少時の記憶は、どれも、食事のシーンとともによみがえる。
7人家族で囲んだ大きなテーブル。
忙しい母が、一緒に落ち着いてテーブルについてくれる時間は
ほんのわずか。
あ、やっと座ってくれたと思ったら
また、立つ。
7人もいれば、誰かが
「お醤油とって~~~」
「ご飯、お代わり~~。」
「マヨネーズは?」
などと注文をつける。
その度に母は席を立ち、テーブルと台所を行ったり来たりしていた。
やっと椅子に座ったかと思うと
電話がなったり、お店にお客さんが来たり・・・。そんな母を見ていて、子どもながらに思っていた。
夕食のときぐらい、ゆっくりテーブルについていられるお母さんがいいなあって。だから、今は、食事の時間を大切にし、
テレビを消し、
すきな音楽を静かにかけて、
ゆっくりといろんな話をする。「あのね~~ママ~。今日こんなことがあったんだよ。」と
話してくれる日は、とても嬉しい。「○○ちゃんがこんなことしたんだよ。」
「○○ちゃんがあんなこと言ったんだよ。」
と、もっぱら、お友達との関わりについての話題が多い。
僕は、正直、こんな食卓の風景が記憶にない。ひねた世の中の見方をしていたのかもしれない。うん。そうかもしれないけど。こんな暖かな食卓ではなかった。だから、子供にはせめて、暖かい食卓と、暖かい家族の愛を注ぎたいし、子供がいる友人には注いで欲しいと思う。どんな形であっても、「原体験」はその後の人生に多大な影響を与えるのだと思うから。どんな形であっても、人間の根幹は幼少期に形成されると思うから…
タバコとコドモを同列に論じてしまう暴挙?
タバコとコドモを同列に論じてしまうっていうのは個人的には如何なものかねえ、と思うのです。【眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!
この赤木って人の論説も微妙に暴論なような気がするのです。まあ、受益者負担っていうのはごもっともなんだけど、受益者負担の論理を持ち出したら、行政は成り立たなくなるわけで。その辺はどうやって折り合いをつけていくかが重要だと思うし、政治の課題なんだと思う。と考えると神奈川の松沢が打ち出している公共の場所での全面禁煙、っていうのも政治的にはちょっとね、ってなるんだよね。
で、小飼弾氏がこれに噛み付いていて。
赤木は、こう言うべきだったのだ。
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。どちらも自らの幸福を追求するという点は同じではないか。いや、大きな違いが一つある。子どもは長じて喫煙者になりうるが、タバコは喫煙者になりえない。その分だけ、子どもを産み育てるのは、タバコを吸うよりひどいとすら言える。タバコは燃えたら煙と灰になるだけだが、子どもは大人となり、個人が自らの幸福を追求する行為を通してさらに社会に迷惑な存在になるどころか、さらに子どもを作ることさえするのだから。
そして、こう書き加えるのである。
正直たばこがうらやましい。煙と灰になるだけなのに、社会はそれを問題として扱ってくれる。煙にも灰にもなれないワープアは、社会にとって存在しないも同様の扱いだ。そして扱われる際は、タバコよりも煙たい存在として扱われる。そうかも知れない。タバコは三兆円の税収をもたらすが、ワープアには税金を払う余裕すらないのだから。ましてや「明日の納税者」を生んで育てる余裕は、ない。
アナタはかつてコドモで、もしかして今もなおコドモかも知れないが、アナタはタバコだったことはないし、今後もない。
タバコとコドモの違いなんて、これで必要にして十分ではないか。
ワープアを持ち出してきてしまうのも極論じゃん、って思ってしまう。コドモがコドモを、っていうのは良いし、コドモが喫煙者に化けて納税額が増えるっていうロジックもまだいい。だが、なぜ、そこでワープアを持ち出す必然性があるのかがわからん。結局オチがついてないだけか。
不況ということで。
不況ということで、マクドナルドとか、吉野家とか、その辺のジャンク・フード系のお店が軒並み好調らしいですね。マーケティングな目から見ると、やっぱり安いほうへ、安いほうへ、っていうところなんだろうか。最近は100円自動販売機とか、90円自動販売機も増えてるっていうし。質よりも量の時代なのかな。
腹がへこむ
年度かわりでいろいろ支払った。まあ、保険とか保険とか保険なんですが。気がついたら日常生活費の口座が結構やばかったり。ということで最近は食欲抑えて節制中。まあ、病院で毎週5千円持っていかれるのでやっぱりそれが痛いのですけど。歯医者もあるしねえ…
でも、お腹は少しへこんだ。うん。