話し相手によっては、実は回答を知っているのだけど知らないふりをして話を進めてみることがある。というわけで、血液検査の必要は十分知りつつも、「やらなくていいんですかね??」と先生にカマをかけてみたら、どうも、血液検査のキットはあるらしい。
だったらやれよ!!
って感じなんだけど、どうも、先生が直接やるっぽい。ああいうのは下手な人は下手だからなあ…
この国では口に出来ないような話。
話し相手によっては、実は回答を知っているのだけど知らないふりをして話を進めてみることがある。というわけで、血液検査の必要は十分知りつつも、「やらなくていいんですかね??」と先生にカマをかけてみたら、どうも、血液検査のキットはあるらしい。
だったらやれよ!!
って感じなんだけど、どうも、先生が直接やるっぽい。ああいうのは下手な人は下手だからなあ…
今日、某巨大電気メーカーのSEと打ち合わせをする機会があったわけなんですけどね。やってきたのはどこをどうみても、2,3年目の若者SE。まあ、うちとしてはとあるソフトウェアについて伺いたいだけなので、入社以来、それしかやってませんよ、っていうくらいのレベルなんだろう、と期待はしていたんですが。どうも違う。
というよりもだ。前提となるうちの製品に関して何も聞かずによくもまあ、ぬけぬけといろいろとしゃべれるものだ、と感心。CPUの使用率がMAXで10%だろうと、それは一般的なパソコンの話では低いかもしれないが、組み込み機器じゃ、高いんだってばよ。
つくづく思うのだが。プレゼンなり、商談なりをする時はしっかり準備をしてほしいなあ、って思うのは贅沢なんですかね。
基本的にインフルエンザにはかからない人なわけなんですけど。やっぱり世間様がこうも騒いでいると怖いものは怖いわけで。んでもって、自律神経失調症という病気のおかげで、身体のいろんな部分の調節がうまくいかないもんだから、ストレスがたまって、身体がぐったりしてしまう。困ったもんです。早いところインフルエンザ協奏曲は終わってほしいもの。
何か気分がのらない、とか、身体がだるい、とか。そんな日はいまだにたくさんある。そういえば、社会人1年目は全然有給休暇取らなかったんだよな。外勤で常駐だったから、庶務のお姉さんに「なんで有給とらないのーー??」って驚かれたっけ。まともに健康的に暮らしていたら今頃ちょっとは変わっていたんだろうか。
相変わらず愚痴。
クールに振舞おうとすればするほど、どこかで何か、「鬱屈」としたようなものは溜まっていくものだ。それはストレスのようなもので、ストレスではなく、感情の発露が自由にできない、自由にしない、そんなつまらないような理由から蓄積されていく。
人間は感情の動物
って言ったのは誰だったか。色んなものをどのような方法でもいいから、自由に発露して、表現して、生きていけばいいじゃないか。そんな事は何度も考えた。でも、出来なかった。それがカッコ悪いと思っているから。それが何か、どこか情けないと思っているから。だから、どこかで素直に感情を発露できるような場を持ちたいとは常々考える。同僚にさえ、友人にさえ、家族にさえ見せていない本当の感情の発露を。本当に親しい知人にしか見せることができていない感情の発露をできる場。心の琴線が素直に反応して音を奏でる様を。
時々。思い出すようにあの猛烈なハラスメントの毎日を振り返ることがある。それだけ、僕の深層心理にしみこんでしみこんで染みついてしまった、ってことだろうか。当時の僕は、理想論にすぎるところが多々あって、自分の理想とかけ離れた処にいる奴が我慢できなかったわけなんだけど、たぶん、今ならもう少しましな対応もできて、もう少しましな反応もできるんじゃないかな、と少し思ってみたり。でも、明らかにパワハラな状況を放っておいた罪は重いと思うし、結果としてもたらされた僕の病気と、それによって失われた時間が帰ってくることは2度とない。それは凄い悲しいことで、そして、絶対に許せないこと。
彫像や、仏像は、何かを我々に語りかけているのだろうか。ロダンの彫像や、阿修羅像や、仁王像が語りかけているものは何だろう。表情は様々なものを言葉なしで我々に語ってくる。それを感じられるようになること。それを理解できるようになること。それが「成長した」と言える要素の一つなのかもしれない。
人は変わっていくものだとしても。変わってほしくないものはあると思う。村上春樹の文体もその一つだった。「アンダーグラウンド」あたりから彼の文体というか、文調は変節し、それまでの作品にあった、何か、こう「もやっと」したものがなくなってすっきりしてしまった。
それを境に新作は一応読むのだけれど、あまり惹かれなくなった。
松山ケンイチで「ノルウェイの森」を映画化だそうだ。んまあ、あの世界観を映像に落とし込むのは大変な作業なんだろうなあ、と想像に難くない。ましてや2時間枠。どうなるんだろう。
学生時代、家庭教師のバイトを一時期やったことがあって。それが割り算のできない中学生だった。サッカーは好きだったが、とにかく勉強が嫌い。その辺にいそうなタイプだ。結局本人にやる気がなくて、こっちもやる気のない子を教える気はなくて、2か月ほどで辞めた。
勉強はできなくても幸せにはなれるかもしれないのだけれど。結局、何か「才能」は幸せになるためには必要なんだろうなあ、って思う。松坂大輔のように150キロのスライダーは投げられなくても、大空翼のようなドライブシュートは打てなくても、そこそこに生きていくためにはやっぱり才能はいるんだよなあ…
33歳の誕生日。特に何があるわけでもなく。そろそろ何かあったほうがいいのかねえ…どうなんだろう。