やっぱり

何か気分がのらない、とか、身体がだるい、とか。そんな日はいまだにたくさんある。そういえば、社会人1年目は全然有給休暇取らなかったんだよな。外勤で常駐だったから、庶務のお姉さんに「なんで有給とらないのーー??」って驚かれたっけ。まともに健康的に暮らしていたら今頃ちょっとは変わっていたんだろうか。

相変わらず愚痴。

琴線

クールに振舞おうとすればするほど、どこかで何か、「鬱屈」としたようなものは溜まっていくものだ。それはストレスのようなもので、ストレスではなく、感情の発露が自由にできない、自由にしない、そんなつまらないような理由から蓄積されていく。

人間は感情の動物

って言ったのは誰だったか。色んなものをどのような方法でもいいから、自由に発露して、表現して、生きていけばいいじゃないか。そんな事は何度も考えた。でも、出来なかった。それがカッコ悪いと思っているから。それが何か、どこか情けないと思っているから。だから、どこかで素直に感情を発露できるような場を持ちたいとは常々考える。同僚にさえ、友人にさえ、家族にさえ見せていない本当の感情の発露を。本当に親しい知人にしか見せることができていない感情の発露をできる場。心の琴線が素直に反応して音を奏でる様を。

ハラスメント

時々。思い出すようにあの猛烈なハラスメントの毎日を振り返ることがある。それだけ、僕の深層心理にしみこんでしみこんで染みついてしまった、ってことだろうか。当時の僕は、理想論にすぎるところが多々あって、自分の理想とかけ離れた処にいる奴が我慢できなかったわけなんだけど、たぶん、今ならもう少しましな対応もできて、もう少しましな反応もできるんじゃないかな、と少し思ってみたり。でも、明らかにパワハラな状況を放っておいた罪は重いと思うし、結果としてもたらされた僕の病気と、それによって失われた時間が帰ってくることは2度とない。それは凄い悲しいことで、そして、絶対に許せないこと。

語るべきもの

彫像や、仏像は、何かを我々に語りかけているのだろうか。ロダンの彫像や、阿修羅像や、仁王像が語りかけているものは何だろう。表情は様々なものを言葉なしで我々に語ってくる。それを感じられるようになること。それを理解できるようになること。それが「成長した」と言える要素の一つなのかもしれない。

変節

人は変わっていくものだとしても。変わってほしくないものはあると思う。村上春樹の文体もその一つだった。「アンダーグラウンド」あたりから彼の文体というか、文調は変節し、それまでの作品にあった、何か、こう「もやっと」したものがなくなってすっきりしてしまった。

それを境に新作は一応読むのだけれど、あまり惹かれなくなった。

松山ケンイチで「ノルウェイの森」を映画化だそうだ。んまあ、あの世界観を映像に落とし込むのは大変な作業なんだろうなあ、と想像に難くない。ましてや2時間枠。どうなるんだろう。

割り算もできない中学生

学生時代、家庭教師のバイトを一時期やったことがあって。それが割り算のできない中学生だった。サッカーは好きだったが、とにかく勉強が嫌い。その辺にいそうなタイプだ。結局本人にやる気がなくて、こっちもやる気のない子を教える気はなくて、2か月ほどで辞めた。

勉強はできなくても幸せにはなれるかもしれないのだけれど。結局、何か「才能」は幸せになるためには必要なんだろうなあ、って思う。松坂大輔のように150キロのスライダーは投げられなくても、大空翼のようなドライブシュートは打てなくても、そこそこに生きていくためにはやっぱり才能はいるんだよなあ…

誕生日

33歳の誕生日。特に何があるわけでもなく。そろそろ何かあったほうがいいのかねえ…どうなんだろう。

ばったり。

横浜駅でばったり前の会社の上司とあって、そのまま駅前の和民へ。2時間ほど飲んできました。やっぱり気心が知れた人と飲むお酒が一番良いと思う今日この頃。

味覚なんて変わるもん。

久方ぶりに昼食に蕎麦を食べたのだけど。一緒に行った同僚が出された水を飲んで、

「水道水っすね、コレ」

味覚は変わるもんだなあ…と。1か月前同じ店にちょくちょく来て水を飲んでいた時はそんなこと一言もいわなかったのにさ。最近美味しいお茶と美味しいごはんと美味しいお味噌汁のお店ばっかり行っていたせいですかねえ。

常識、良識。

常識、とか当たり前、とかよく使う人間がいますが。じゃあ、常識って何よ、ってことになると思うのね。常識なんて人それぞれで違うわけでさ。多様な価値観が世の中には存在して、人はそれぞれ折り合いをつけて生きていくわけでさ。常識とか当たり前の価値観を押し付けてしまうようじゃ駄目だと思うのだよな。