暑ければ寒いと云え、悲しければ笑え、とは虎哉宗乙の言葉だったが、その真意は、人の上にたつものが滔々と不満を口に述べてはいけないということ。我慢の出来ない奴は大将足る器ではないということだ。
「義を説き、範を垂れる」とカスペン大佐に詰め寄ったのはキャデラック特務大尉だったが、これも指揮官の何たるかを語った言葉。
なんだか、美しい指揮官、モデルロールとなる人がいなくなってしまったような印象が最近している。悲しいけれど。これも老害の一種なんだろうか。
この国では口に出来ないような話。
暑ければ寒いと云え、悲しければ笑え、とは虎哉宗乙の言葉だったが、その真意は、人の上にたつものが滔々と不満を口に述べてはいけないということ。我慢の出来ない奴は大将足る器ではないということだ。
「義を説き、範を垂れる」とカスペン大佐に詰め寄ったのはキャデラック特務大尉だったが、これも指揮官の何たるかを語った言葉。
なんだか、美しい指揮官、モデルロールとなる人がいなくなってしまったような印象が最近している。悲しいけれど。これも老害の一種なんだろうか。
帰蝶輿入れの後日談と菊丸の正体。そして、妻木照子に会う。
菊丸の正体が忍びだろうな、というのは想像ついていたので良いとして、松平広忠をあっさり殺して、それを「信長の失敗」と言ってしまう作りはどうなんだろう、という感じがしたのと、妻木照子はなんだか、「妖精さん」のような登場の仕方でちょっといただけないな、と思った、正直。
でも9回でここまでしか描けていなくて、この後、道三と信長の対面や、信長の尾張統一とかも描くとなると、1年の流れのなかで重きがおかれるのは何処なんだろうか。越前に逃れた光秀と、尾張の帰蝶、都にいる駒。物語のバランス配分が大切になってきそうだ。
明日は3月11日なのだけど、震災からの復興をテーマにした遅いインターネット会議。ラジオっぽく聞いていたのだけど、結局この10年でこのクニは何も変わらなかったのではないか、と感じる。
安倍晋三の休校要請を後先考えずに思いつきで出した、という批判があるのだけど、このクニに足りないのは結局「責任を取ることのできる責任者」ではないのか、と思う。安倍晋三が本当に責任を取るかどうかはそのうちわかると思うのだけど、誰かが決断して、誰かが実行策を考えて、実際の統治を行っていかないといけない。責任を取りたくない責任者達が責任を取りたくないが故に何も決断しない。この10年、そんなのばっかりだったのじゃないか。
後先考えている暇があったら、とりあえずやってみなはれ、という気風がもう少し広まっていくといいな、と思う。これは結局「失敗を許容する社会」を広めよう、ということになってしまうのかもしれないけれど。
帰蝶、濃姫が織田家に嫁ぐの巻。
次回予告の映像から、信長と帰蝶の絡みがあるかと期待していたが、そうではなかったのと、駒を京都に帰して、なんだか、「つなぎ」の回の印象。松平広忠を出してきたのだけど、あれはなにかの伏線なんだろうか。次回予告に出てきた菊丸の台詞も何か「意味深」でしたしね。
著者が言う所の「遅いインターネット計画」には全面的に賛同はする。だが、この本は何か「片手落ち」な感じがする。何かが足りない。
一番引っかかったのは冒頭のリオ五輪のセレモニー。著者は、日本が過去の栄光でしか自国を語ることができなくなった、と嘆く。確かに、ドラえもんや、マリオであったり、そこに安倍晋三が乗っかってきては嘆きたくなる気持ちも解る。だが、土管から安倍晋三が出てきた後に、描いたセレモニーは日本のテクノロジーを語るものではなかったのか。どうして、そこに一切触れていないのかわからないし、何にせよ、冒頭の君が代の演奏は、スタジアム全体に脱帽と起立を求めつつも、日の丸がフィールドに描かれる、というある意味衝撃的なものだった。何か、自分に都合よく物事を切り取っていないか。
一方で、インターネットが「早くなって」しまったのは事実だ。インスタンスな書き手と、それを受け取って潮目を読みつつ、石を投げ続ける受け手。そんな輩を撲滅する必要があるのは事実だと思う。
著者のオンラインサロンでこの本を受けてのその後が「補完」されることを期待したいと思う。
なんだろう。あまり印象に残らない回だった。
帰蝶が沢尻だったら、とか邪推するのは野暮なのでやらないし、川口で充分良いとは思う。だけど、何か印象に残るような言葉、フレーズ、台詞、シーンがなかった。そんな回。敢えて言えば、「尾張には海がある」あたりだろうか。
信長初登場は、ドラマの最後の最後で、ある意味期待はしていたのだけど、肩透かしをくらった感じ。
龍馬伝から始まった灰色っぽい魅せ方は今回の演出でいったんは区切りを迎えたのではないだろうか。
極彩色の魅せ方が良い、悪いというのはあると思うのだけど、あの中庭での殺陣と、長谷川博己の跳躍は確かに良い魅せ方だったと思う。ただ、松永久秀があそこまでの人物かどうか、というのはあるが。アバンタイトルの妙な笑い方も含めて。
3年勤めるともらえるリフレッシュ休暇をもらって、出雲大社へ行ってきました。
行き帰りはサンライズ出雲、現地一泊、でなかなかの強行軍だとは思うけど、前回行った時の飛行機の面倒臭さよりは良いかな、と。結局、出雲大社を2日かけてじっくりと堪能した感じ。
前回は2011年の夏なので、9年ぶりなんだけど、御朱印を集め始める前だし、寺社仏閣の知識を吸収し始めたのもその後。9年前の自分には無かったいろいろな気付きがあって、良かったと思う。
真田丸で印象に残っているシーンを幾つか挙げろ、と言われれば、織田信忠と、父上の対決のシーンはその中に必ずはいると思うのだけど、その、織田信忠が今回の伊平次、というのはなかなかの衝撃だった。
役者さんの演技力って凄いね。ホントに。
あと、足利幕府末期の京都周辺にいる主要人物が出てきたわけなんだけど、やっぱり好きなものばかり追っていると、自分の知らない人物と言うのはいるわけで、知識、教養の至らなさは日々痛感する。
遅いインターネットの本サイトが始動した。
宇野常寛氏の言動には以前から興味があって、PLANETS CLUBも入ろうかどうか、さんざん迷った挙げ句にこの1月に加入した。「遅い」インターネットと「速い」インターネット。その違いとか、定義付けがいまいち明確になっていないのだけど、最初の3本の記事は良質だと思うし、所々にはその背景をわかっていると、クスッと笑えるような記述もある。自転車と教習所とかね。
そもそも、このドメインではトップのページのほうにはもっとサブカルや教養的な話をまとめたいな、と思っていたので、遅いインターネットにインスパイアされた何かを書いていくことができればいいな、とは思う。
ただ、それをTwitterやFacebookのSNS系は全然考えずに、とりあえず発信させれば良いという方向に行った。結果、人々はより考えなくなってしまった。
https://slowinternet.jp/article/20200217_3/
未だに一つ、解決されていない疑問が僕にはあって。それは、遅いインターネットの言説のひとつに、「人々は考えなくなってしまった」というのがあるのだけれど、なぜ、考えなくなってしまったんだろうか。そこの疑問が取れていない。考える力。慮る力。そんなものが無くなってしまったのは何故なんだろう。