世の中は3連休

世の中は3連休ですが、なんとなく色々なものが絡み合っていて、すっきりと休息が取れない日々。やりたいと思えること、やらないといけないこと。色々な事があるのですが、どうしたもんでしょうか。

言葉責め

色々な態度、言葉で人を精神的に追い込むことがあるんだ、というのをわかっていない人が多すぎると思っていて。まあ、きちんとコミュニケーションを取らないつもりなら、取らないで良いので、立場的な責任はしっかりとって欲しいと思うのです。言わないくせに、こっそり期待してるんじゃないよ、全く、と。

いじめ

大津のいじめ問題でネット界隈が大騒ぎになって以降、大津に限らずあちこちで子供のいじめとその周辺の問題が取り上げられるようになってきた。先生という職業にしても、結局「空気を読まないといけなくて」、いじめをゼロに見せる努力が結果として生まれてしまっている以上は、まずそういう空気を読む文化から変えないと駄目だと思うのですけどね。

国民性というか、文化はそうそう簡単に変わるものではないと思う。

腰痛

週の頭から左側の腰痛がひどくて、困っています。ま、腰に限らず首周りが痛かったり、肩凝りがひどかったり、汗がひどかったり、全般的に身体のメンテナンスは必要なんですが。左の腰は背中のほうが痛くて、年末に尿路結石で救急車に乗ったことを思い出すんですよね…

子供に期待しない

大津の中学でいじめがあった話に絡めて。
高校1年の時、ある教師が亡くなった。中高一貫の学校で、彼は中学3年間、5クラスのうちの1つを担任として持っていて、我々が高校にあがる時に担任を外れて1人新中学生の担任に回っていた。まだ若く、新婚だった。マラソン大会が近い秋の日で、校長が朝礼でその事を告げた時に手を叩いて喜び合い、がっちり握手を交わす級友が居た事をはっきりと覚えている。

嫌な奴がいなくなった

そんな感じだろう。子供なんてそんなものだと思う。人の死を大人が思う正しい感覚で受け入れることを要求するのは子供には酷だ。だから学校がある。ちなみに数日後、その教師の葬儀があった。多くの生徒が参列し、霊柩車に頭を下げて見送った。手を叩いて喜び、がっちり握手を交わしていた級友が参列していたかは覚えていない。というより、そもそも同じクラスのやつに会った記憶がないな。

今になって思えば

失ったものは非常に大きかったように思う。病気のせいで、何もかもが自暴自棄になって全てを投げ出していた時代。投げ出していなければ、何かを得ていることはあったのだろうか。今は幸せではないと思うし、何かを心から幸せであると思える瞬間がない。あの時我慢していれば、何かを得ていた事はあっただろうか。それが今になって、色々な結びつきを取り戻してくると、ふと考える。

いじめは刑罰対象になれば良い

大津市のいじめの問題が話題ですが、子供、大人問わずいじめは刑事罰の対象にすれば良いと思うのですよ。将来がどうとか、可能性を潰すなとか、綺麗事を並べる前にやられたほうの気持ちになれば宜しい。やったもん勝ちでは世の中、救われなくなってしまう。教育委員会や学校までグルになって口裏合わせるとか、やり方がどうしようもないと思う。

7月

2012年も半分が終わりました。いつの頃からか、年月時間がすぎるのを非常に早く感じるようになりました。年齢のせいでしょうか。病気のせいで、色々な事が、物が、生活がぐしゃぐしゃになってしまって、建て直そう、建て直そうと必死で生きてきたここ5年。部屋は相変わらず汚いままだし、恨みをもった気持ちは未だに消えません。それでも、何か少しずつでも良い方向に変わっていくことができればいいな、と思って必死に苦しいのを我慢して生きています。

何か少しでも良いことがありますように。

大飯原発再起動

大飯原発が再起動したようですな。一方で7月になって、関西地方は計画停電の実施期間に入るとか。仕掛けを作っておくことは行政として当たり前のことだと思うのだけど、橋下市長をはじめとする政治家がどうにも「反原発カード」を使うことに躍起になってしまっているような印象が否めない。反原発カードを象徴的に使うのではなくて、もっと現実的な所で落とし所を探れないものなのか。

何故に老人は敬われるか

数日前に斜め読みしていたこの記事。

備忘録 – そもそもなぜ老は敬われてきたのか

最近ササクレだってイライラっとしていたのは、ある人間から「俺は年上なんだから、うだうだ言わずに敬え」と直接的に言われたから。

敬う価値がそこにあるのなら、敬いますよ

というのが正直な所だが、まあ、角が立たないように適当に誤魔化した。
そう、老人には利用価値があった。今のように記憶が外部化されていなかった時代。生きた知恵袋に頼るしかなかった。だから皆敬った。保守的な民族であるこのクニの人々は、同時に認知欲求を満たさんがために、この「老人を敬う」システムを後世に残していこうとしているのだが、価値のない人間に「敬え」などと言われてもちっとも敬う気にならない。

敬え、などと宣う人間はまず自分が敬う価値のある人間であることを立証しろ。話はそれからだ。