続:苺T

何かメールが来たので。続編。といっても、元ネタblogの長編にいちいち反駁する元気もないので簡単に。引用もしない。

前回のポスト:苺T

まず、前回のポストは単なる「書きなぐり」で、論理をあれこれ考えて書いたものではない、ということはお断りしておく。この辺は多分僕にメールを送ってくれた人が書いたかもしれないコメントに書いてある「駄文」という言葉がそのままあてはまるだろう。いわゆる苺Tが「くだらん」議論であることは百も承知だし、でも、それを踏まえた上でも試合において何か意味があるのはJDA-MLに投げた通り。つまり、そこに何かの意味を持たせる論考は多少はしたつもり。論考になっていないのなら、それはそれ。個人の受け取り方の違い。少なくとも僕の論考を受け取ってくれた人はいたわけで、となると、論考に全くなっていない、という看破はできない筈。つまり、「全く論考もしていない」という書き方はちょっと違う。

「苺T」をジャッジが取っちゃいけません、というのは見識の一つではあると思う。ただ、それが正しいのなら、どんな議論だってジャッジの気分一つで「取られない」事は起こりうるわけで、そんな事はあってはならない。リフレク行って、「いや、俺はそうは思わん」の一言で片づけられたらそれこそ大問題。ならば、どんなにおバカな「苺T」でも、そこに何かしらの反駁を加えれば、議論は成立しなくなるわけで、直後のQAと反論スピーチで叩きつぶせば済むはずだ。もし、「苺T」を取らないというフィロソフィーを取るのであれば、そのジャッジは自分のあらゆる思想信条生い立ち思考方法、全てをフィロソフィーへおとしておくべきだし、それをしないで、「馬鹿な議論は取りません」で斬ってしまうのであれば、それは間違いだと思う。そういうジャッジはシフトもしないのか?って言うとそうではないみたいだし。

なら、それらしく聞こえたそれらしい「苺T」なら取っても問題はないと思うのだけどね。まあ、勿論、反対側からのQAや、反論を全て答えて、ジャッジを納得させることは必要だけど。

・イニシャルから「馬鹿なTは取らない」というならその判断基準を示して下さい。「馬鹿」「馬鹿じゃない」の境界はどこですか。
・「馬鹿なTは取らない」のに、シフトをするのはなぜですか。フィロソフィーで「耳は貸します」的な事を書くなら「苺T」にも耳を貸しませんか。

これでも議論としては成り立っていないような気がする。時間と元気があったら整理します。

追伸:無断引用はいいですけど、盛大に反論を書くならせめてコメントなり、TBなりはしてほしいです。

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